Hydrofoil ハイドロ フォイル
構造と推進方式
水中翼船の歴史
アレクサンダー・グラハム・ベルと水中翼船[1906年〜1921年]
水中翼船のパイオニアであるアメリカのウィリアム・E・ミーチャムは、『サイエンティフィック・アメリカン』誌の1906年3月号の記事で水中翼の基本原理を解説し、自身の実験について発表した。
水中翼船の速度が上がると、水中翼船は、水中翼船が取り付けられている垂直の支柱に支えられて、完全に水面から離れるまで船体を上昇させる。さらに速度を上げると、水中翼船自体が水面から浮上し、その揚力がボートの重量分まで再び減少する。この作用表面積の自動的な減少を、ベルとボールドウィンは、帆になぞらえて「リーフィング」と呼んだ。水中翼船の角度によって水平力と垂直力の比が決まるため、水中翼船のリーフィングによって水平力(前進するための抵抗力)は速度が上がっても一定に保たれる傾向があるが、通常のボートでは抵抗力は速度の2乗に比例して増加する。
ボートと飛行機械の複合機として計画された。ボールドウィンはこのプロジェクトの責任者であった。
しかし、ボールドウィンがイタリアの発明家エンリコ・フォルラニーニのの業績を研究し、模型をテストし始めると、彼とベルも水中翼船に目を向けるようになり、軍用の水中翼船の実用化に向かうことになった。ベルの関心は活発で、提案も鋭かった。その年の秋も曳航試験は続いたが、ストレスで部品が故障するなどのトラブルが続いた。しかし、ボールドウィンが乗った2隻の曳航式水中翼船は、船体が水面から浮き上がった。また、ボールドウィンは、水中翼の下端と上端が水平になるように傾斜した梯子状の水中翼のセットを設計し、リーフィング動作を跳ね上げるのではなく、連続させるようにした。
AEAのメンバーであるベル、マッカーディ、ボールドウィン、セルフリッジはそのころできたばかりのブラスドール・ヨットクラブに入会した。 会員となり、クラブの初期のレースの運営を手伝った。 1908年のある会合で、ベルはクラブの幹事に呼ばれ、ヨットやレースについて話している。幹事は、ベルが次のように主張したと記している。第一に安全、第二に快適、第三にスピード」。 また、「プロペラが空中にあるボートはモーターボート・レースに参加する資格がある」とも述べている。1909年のAEA終了後、ベル、ボールドウィン、マッカーディは、カナダに航空産業を興すべく、カナダ飛行場会社(CAC)を設立する。同社は航空機の製造と試験を行うが、航空機の注文がなく、1年後に事業をたたむ。
1919年のテストに続いて、カナダ海軍の標的を曳航する実験的なハイドロドロームがさらに製造・テストされる。Bell & Baldwinは会社を設立し、特許を取得する。
ベル以降の水中翼船開発
最初の旅客船
1953年5月、イタリアのマッジョーレ湖で世界初の旅客水中翼船サービスが開始され、PT10が就航した。1953年には、より大型のPT20がリュルセン造船所Lürssenで建造され、ブレーメンのパイオニアBremen Pioneerと命名された。シュプラマール社は200機以上製造したが、その後、Supramarのライセンスにより、そのほとんどはイタリアのシチリア島にあるロドリゲス社Rodriquezで製造された。日本の日立造船はライセンス供与を受け、 1962 年よりPT20 と PT50 型をライセンス生産した。ノルウェーのウェスターモーンWestermoenによって多くのSupramar型水中翼船が建造され、現在も多くのSupramar PT 20とPT 50水中翼船が就航している。
1968年、バーレーン生まれの銀行家フセイン・ナジャディがシュプラマール社を買収し、日本、香港、シンガポール、英国、ノルウェー、米国に事業を拡大した。米国のゼネラルダイナミクス社がライセンス提供を受け、米国防総省からスーパーキャビテーション分野での初の海軍研究開発プロジェクトを受注した。OECD諸国の主要な船主や造船所もライセンスを取得した。
- PT-10, 商業用水中翼船第1号 1952年
- PT-20 MKII, 商業用水中翼船の最初のシリーズ
- PT-50 MKII, エアフィードフォイルによるスタビライジングを特徴とする最初の船
- PT-75 MKIII, スタビライジングシステムを搭載した最新鋭の内航船
- PT-150 MKII, スタビライジングシステムを搭載したシリーズ最大の船
- MT-250, 軍用プロジェクト
水中翼船 1961年(昭和36年)日立造船で新造船された水中翼船の広告
近代的な旅客水中翼船
.jpg=rw)
side of Yakushima Island, Japan.
日本での水中翼船 開発と製造
水中翼船の技術開発が本格的にスタートしたのは1960年ごろで、三菱造船や新明和工業は独自開発を目指し、日立造船はシュプラマール社との技術提携によって開発を進めた。新明和工業は飛行艇を製造した経験と知識を生かして1961年に「SF-30」(約15人乗)を開発した 。前中後の3つの水中翼を持ち、艇走時には跳ね上げられる。船体は軽合金を使用し、表面にプラスチックコーティングを施し、普通の船と比べて補修費も安く耐用年数も2倍近くあった。1962年3月に野母商船が開業した日本初の水中翼船の定期航路である長崎・時津港~佐世保を結ぶ路線に使用されたが、2年足らずで廃止された 。
三菱造船は当初グラマンやボーイング社との技術提携も考えていたが、条件が折り合わず自主開発の道を歩んだ 。米海軍が水中翼船の開発が活発化していたこともあり、魚雷艇を製造していた三菱は軍用に開発を進めてきた。その後商用艇への期待が高まってきたため1961年に5人乗りのMH-1と12人乗りのMH-3を開発した。1963年には80人乗りのMH-30を開発した。MH-30は近鉄志摩観光汽船で「Pearl Queen」と名付けられ、運航された。名古屋-鳥羽間で運行した。当時、ライバル関係にあった名鉄観光もPT-20とPT-50で名古屋-鳥羽間を就航させており水中翼船同士の対決となっていた。1976 年 10 月 1 日を以てその水中翼船運航は打切りに至った。
日立造船は1960~80年にかけてスイス・シュプラマール社の半没型水中翼船を日立-PT20,50型という名前でライセンス生産していた。およそ50隻ほどの水中翼船を生産し、これらは瀬戸内海を中心に運航された。代表的な運航会社として、瀬戸内海汽船、石崎汽船、阪急汽船、名鉄海上観光船等がある。また東海汽船による東京湾横断航路でも使われていたため首都圏でも見ることができた。
プロペラ駆動で時速64kmの速度を出せたが、水面上に翼が出ているので波の影響を受けやすかった。しかし左右に傾いたときに元の姿勢に戻ろうとするので、高度な姿勢制御システムを必要としない。そのためジェットフォイルより安価で構造が簡単であった。しかし、低燃費で高速航行が可能な反面、波の影響を受け乗り心地が悪い上に維持コストが高く、水中翼の接触を防ぐ専用の接岸施設のない港に入港することができない等の欠点があり、次第に他の高速船やジェットフォイルにシェアを奪われていった。
双胴水中翼船スーパージェットの開発(1986-1993)
スーパージェット30(SUPER JET-30)
1993年11月10日 - 高速船「とらいでんとえーす」就航。以後「あるてみす」「あぽろーん」順次就航。
スーパージェット40(SUPER JET-40)「シーマックス」
沖縄県石垣市の安栄観光が、2017年から石垣港 - 波照間港航路で「ぱいじま2」として運航されている。テクノスーパーライナー(TSL)
実験終了後、神戸海洋博物館で展示されていた「疾風(はやて)」
2016年11月に解体撤去された
疾風(はやて)は実用船の1/6スケールの試験船で、上部船体はアルミ合金で、水中にある下部船体はステンレス鋼でできている。ジェットフォイルとは違い、全重量の半分を下部船体の揚力で支持し、残りの半分は浮力で支持している 。波高6mでも航行できることを目標に設計された。浮力で支持しているが、構造上自己復元力はほとんど働かない。そのため姿勢制御システムが非常に重要であり、疾風はこのシステムを実海域において試験するために作られた。1989年から1992年にかけて開発・設計・製造され、1992年から1994年にかけて試験航行が行われた。試験は主に大阪湾で行われた。高さ6mの波でも40ノットの速度で安定して航行でき、優れた耐航性と操縦性を確認した。また実船を建造するための設計技術があることも実証した。しかし船価や維持費が高く、TSL-F船型の実用化は見送られた。
出典:
Hydrofoil - Wikipedia
Boeing 929 - Wikipedia
Boeing: Historical Snapshot: Jetfoil/Hydrofoil
JETFOIL ミニ百科|川重ジェイ・ピイ・エス株式会社
超高速旅客船 | 船舶 | 川崎重工業株式会社
川崎重工は、1987年に高速旅客船ジェットフォイルの製造・販売権を米国ボーイング社から引き継ぎ、1989年から1995年にかけて神戸工場で15隻を建造しました。その後新造需要は一旦後退しますが、約四半世紀の後に代替需要の時期を迎え2017年に久々の新造発注を得るまで就航船のメンテナンス、改装工事等を継続して関連技術を維持して来ました。
ジェットフォイルは、なぜ、“海を飛ぶ”のか? | 凄いぞコノ船の秘密 | 川崎重工業株式会社
ジェットフォイルについて詳しくは
0 件のコメント:
コメントを投稿